愛しのローズマリー(01/米)



『愛しのローズマリー』は異性を外見で判断しすぎる主人公の“成長”を描いたハートフルなラブコメディです。主人公・ハルの浅薄さに焦点をあてた原題の『Shallow Hal』よりも、邦題の『愛しのローズマリー』のほうが、ハルの変わらぬ思いを表現できていて、題名としてはこちらに軍配があがりそうです。グウィネス・パルトロウはあるとき特殊メイクでローズマリーに扮したまま、バーに出かけたそうですが、周りのあまりにも冷たい視線にショックを受けたといいます。ジャック・ブラックは相変わらず愉快ですね(笑)。

ハルは少年期に父親を亡くしていますが、かれが女性の見た目を偏重するのは、父親からうけたアドバイスが一因かもしれません。父親は少年ハルに言います。「月並みで満足するな。とびきりの美女をモノにせよ」と。ローズマリーと出会う前のハルは、友人のマウリシオと毎夜クラブに出かけ、手当たり次第に美女に声をかけてはフラれるといった有様で、理想が高すぎることがネックになっているのを、本人はまったくわかっていません。勤務先の投資銀行の同僚にも「美女が相手にするほど君はハンサムか」と皮肉られる始末。それでも別段気にとめるようすもなく、フラれてもフラれても声をかけつづけるハルの姿には“執念”のようなものさえ感じます。

ある日、故障でとまったエレベーターの中でたまたま居合わせたセラピストに、催眠術をかけられたことで、ハルは内面の美しさに目を向けるようになり、街角で見かけたローズマリーに一目惚れします。ハルにとって理想の女性だったのです。出会いで多少の誤解はあったものの、ハルの真摯な態度にローズマリーもしだいに心を開いていきます。巨漢のローズマリーに愕然とする友人のマウリシオを尻目に、ローズマリーとデートを重ねるハル。容姿のことをハルにほめられると、気持ちが落ち着かなくなるローズマリー。コンプレックスが原因で対人関係に自信がもてず、それでもハルに愛されたいと願うローズマリーの姿は健気です。マウリシオは親友のハルがどこか遠くの世界にいってしまったような寂しさを感じるのでした。

ハルほどではないにしろ、人が他人を外見で判断しがちなのは否定できません。メディアに美の基準をすりこまれているというセラピストの意見にも、うなずけます。この映画はそんな現代社会への風刺もこめられていますね。映画の後半の見どころは催眠術をとかれた後のハルの変わりようです。ローズマリーの真の姿にショックをうけたハルは大いに悩むのですが、彼女の人間性に惹かれている自分に気づき、それまでの自分の愚かさを恥じます。ハルは催眠術をかけられたことによってローズマリーに出会い、そして催眠術をとかれたことによってそれまでとはちがう別の価値観をもった自分に出会った。そうともいえるのではないでしょうか。

ハルとローズマリーのデートのシーンが印象的です。レストランでスチール製の椅子がぺちゃんこにこわれたり、ローズマリーがプールに飛びこんで盛大な水しぶきがあがったり、そのほかにもありえないことが起こるのですが、嫌味にはなっていません。それは、ローズマリーを見つめる監督(ファレリー兄弟)のあたたかいまなざしを感じるからです。

愛しのローズマリー@映画生活

テルマ&ルイーズ(91/米)

テルマ&ルイーズ『テルマ&ルイーズ 』は休暇を楽しむ旅に出た2人が、旅先で図らずしも犯罪に手をそめ、思いがけない結末を迎える出色のロードムービーです。リドリー・スコット監督は、中年にさしかかった2人の女性が旅を通じて変貌していくようすを、物語自体の深刻さとは裏腹に、明るくかわいたタッチで描いています。テルマとルイーズという好対照の2人を、それぞれジーナ・デイビス、スーザン・サランドンが見事に演じています。

テルマは映画の冒頭ではとても受身な女性として描かれています。支配的な夫の顔色を常にうかがいながら、ルイーズと旅にでることさえ言いだせず、夫に従順にしたがう妻を演じています。性格は良くいえばおおらか、悪くいえばルーズで、部屋もそれほど整理がゆきとどいているとは言いがたいし、旅行の準備をするにしても、ルイーズとはちがって、手当たり次第に鞄にものを詰めこんでいくといった感じで、計画性がありません。テルマが受身なのは、おそらくそれまでの結婚生活で夫の言いなりになっていたため、自分から主体的に行動するという習慣がなかったからでしょう。

ルイーズはウエイトレスの仕事をしながら経済的に自立し、恋人はいても男をあてにせず、自分のことは自分でなんでもこなせる女性として描かれています。身の回りのものはきちんと整理整頓され、部屋には塵ひとつなく、旅行の準備も完璧で、事前に準備したものをひとつひとつ鞄につめていく姿はテルマとは対照的です。ただ、ルイーズの“つよさ”は生来のものというよりは、そうあろうと彼女自身が望み、ふるまっている“ポーズ”のようにも見え、ある意味で、彼女のつよさは弱さの裏返しではないかとも思えます。弱さを抱えるがゆえに、強くありたいと願う気持ちが前面に出ている。そんなふうに見えました。

この映画のおもしろさはそんなしっかり者のルイーズが旅先の酒場で取り返しのつかない事件をひきおこし、警察に自首しなかったことで、テルマを含めた2人の人生ががらりと変わってしまうという点にあるといえます。進退窮(きわ)まったルイーズがわらにもすがる思いでたよりにしたのは恋人ではなく、恋人の蓄えていたお金でした。そのお金でメキシコに逃げる“計画”を思いついたのです。それが後にさらに皮肉な結果をもたらすことになります。テルマは事件のきっかけをつくった張本人ではあるものの、実際には犯行におよんでおらず、ルイーズと行動をともにしなければ、別の人生もあったのではと思うのですが、ルイーズと行動をともにすることを選びます。

その虎の子の逃亡資金を、こともあろうに旅の途中で知り合ったヒッチハイカーの青年(ブラッド・ピット)に盗まれてしまいます。恋人に無理をいって援助してもらったお金を盗まれ、茫然自失のルイーズ。テルマは対照的に人が変わったように行動的になっていきます。相変わらず後先のことを考えない行き当たりばったりの行動なのですが、今度はテルマも犯罪に手をそめルイーズもテルマの“勢い”に押されるように元気をとりもどしていきます。それまではルイーズがテルマを引っぱる“母親”のような役目をしていたのが、ここからは立場が逆転していく。テルマは自分の“殻”をやぶり、はじめて心から自由を味わうのですが、そのきっかけを、“犯罪”をおかすことでつかむとは、何と皮肉なことでしょう。

2人を追う刑事をハーヴェイ・カイテルが好演しています。かれはテルマとルイーズに同情的で、なんとか自分の手で事件を解決しようと奔走するのですが、FBI に捜査の主導権をにぎられ、思いきった行動がとれず、歯がゆい思いをしています。それにしても、ラストが印象に残ります。ふつうに考えれば悲しい結末なのに、悲愴感はありません。むしろ清々しい感じがするほどでした。これは映画の描き方の問題なんでしょうね。脚本のすばらしさと、リドリー・スコット監督のすごさをあらためて思い知らされました。


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